ぐるぐるゆるっと子育て@高齢出産 vol.9

 

42才の妊婦さん

 

こんにちは!かもみぃみるです。
結婚した3か月後。9月の誕生日で42才になりました。マタニティライフもあと半年。
→前号のvol.8はこちら

産院が決まってからは経過も順調で、お腹の赤ちゃんはすくすく育っていきました。
結婚して初めての年末年始。
ぎりぎりまで仕事で忙しい相棒デザインの年賀状を出せたのは大晦日でした。夕方以降に受け付けてくれている郵便局に投函して、そのあと近所のお寺まいりへ。
久しぶりにふたりで出かけたのですが、急にお腹を締め付けるような痛みが走りました。初めてのことにとまどいながら、用心してすぐに帰宅。足元が冷えていたのか、家でゆっくりあたたまるとお腹の張りと痛みはなくなりました。
初めてといっていい不調で不安いっぱい。一方の相棒は「せっかく久しぶりのおでかけなのに」とちょっと不機嫌に。妊婦の身体はデリケートなんだぞー。お腹の赤ちゃんに何かあったらという不安と、絶対に守るという強い気持ちが湧き上がってきました。こういうのが母親の気持ちなのかな。

年があけて。
12月半ばに手術を終えて抗がん剤治療のために入院していた私の父が、お正月だけは帰宅を許されたということで、相棒に頼んで連れていってもらいました。
離れて住んでいると「だいじょうぶだよ」と電話で聞いていても不安は消えません。
母には「お父さんの思うようにゆっくりさせてあげたいから、帰ってこないでほしい」と言われました。私たち夫婦が帰省することが邪魔だと思っているのです。これまでなら母に強くそう言われたら、自分の気持ちをひっこめて父に会いにいくことをあきらめたと思います。けれど、その時の私は「何も構わないでよいからお父さんに少しでも会わせてほしい」と押し掛けたのでした。結婚してお腹に赤ちゃんがやってきて、私は少しずつ、これまでの自分にはなかった安定感と強さを感じられるようになっていました。

結婚に至る半年ほど前から、母と私の関係はぎくしゃくしていました。
結婚してほしい親と結婚したいけれどもできない娘。40になるまでロクに恋愛もしたことがなく、お見合いという年でもないし。そもそも20代前半に「お見合いはしません!」と親戚中に宣言した私。自分のことは自分で探して選んで決める。誰かの価値基準で「良い」とされたものではなく、さらから自分の目で確かめて、感じて考えて選びたい。10代から一貫している私の信念のようなものがありました。自分で選べば人のせいにすることも後悔することもないからです。
子どもは欲しいな。そうなるとリミットは近いな。焦りを感じ始めていました。

 

仕事も趣味も、自分のやりたいことを自分で見つけて歩いてきました。興味のあること、やってみたいことに体当たり。次から次へと新たなチャレンジを繰り返していました。新しい扉を開くたびに多くの人と会い、さまざまな経験を重ねながら、多様な価値観に触れる喜びを感じました。

高度経済成長期に生まれ育ち、バブルへと時代が向かっていました。右肩上がりの経済。終身雇用、年功序列は永遠に崩れないもののように思えていました。業界や業種の違う転職を思うように何回もできたのは、今から振り返るとあの時代だったからこそ。そして気がつくと40才目前だったというわけです。

母は一番の理解者であり味方でしたが、年齢を重ねるにつれて、私の中に違和感や居心地の悪さが大きくなっていきました。結婚はしてほしいけれど、母の目の届くところで、母の気に入る相手であることが前提。そして何かあればこれまでと同様に母が必要とするときには思うように何でも叶える良い娘であり続けること。
勤勉で家事に長け、手間暇を惜しまずに育ててくれた母。困り事や苦労があっても逃げずに精いっぱい頑張る人。そんな母は自覚のないままに私を自分の分身もしくは一部のように、思い通りの存在であることは当たり前。大人の、女性である母の悩みも苦しみさえも共有し、時には肩代わりするような関係になっていました。母の思う通りの娘でいることは、私という存在を守ることと同じくらいに欠かせない、絶対的なものになっていました。

大人になり、本当の自分の気持ちや価値観が母とは異なることが増えるにつれて、苦しさや違和感が大きくなって心のバランスをとれなくなっていきました。

父ががんであるとわかったとき。突然に自分の中から恐怖が噴き出し、こなごなに砕け散りそうな衝撃を感じました。「このままでは一生母の思う、母のためだけに生きて人生が終わってしまう」と。
家を飛び出し、妹の紹介で相棒と出会い、結婚を決めることになるのですが、生まれて初めて相談や連絡もせず、事後報告であったことを母が受け入れられるはずもなく、冷えた関係性の中で結婚し、このお正月を迎えていたのです。
このような背景があって、私は高齢出産にもかかわらず、親元ではなく相棒とふたりで産むことになりました。

強い抗がん剤の影響で父の髪は抜けていました。お正月だけと、大好きなお酒を少しいただいたようで、頭のてっぺんまでほんのりピンク色。
祖母の時にも感じたのですが、抗がん剤の影響か、色が白く、血液が透けているような色でした。
野球や卓球をずっと続けていた父。70才とは思えない軽い身のこなしで、卓球クラブに所属し、庭師の資格をとってうちの庭や知人宅の世話をしていましたが、体力が落ちているのか、ふたまわりくらいほっそり小さくなって、ぐったりとソファに横たわっていました。

元旦から2泊して3日の午後に実家を出ました。

雪がちらつくなか、最寄り駅まで父と母が車で送ってくれました。
別れ際、運転席に座る父と窓越しに「この次来るときは抱っこしてやってね」というと、父は恥ずかしそうに戸惑いながら、私の大きなおなかを撫でてくれました。
(次号へつづく)

 


<かもみぃみるのプロフィール>
1963年生まれ。41歳で結婚、42歳で出産した一人息子は現在中3。産後は体調を崩すなか、孤育てや介護、看取りも経験しました。音楽と踊りが大好きです。結婚までの、そして結婚後の様々な職歴と学びを活かして、数年前から女性の心身のウェルネスをサポートする講座やレッスンを行っています。「その人らしさを大切に。ゆるめること、ながめること、味わうことでよりよく生きる」を目指しています。

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