きょうはなんの日(2)天津条約締結 1885年4月18日

きょうはなんの日(2)天津条約締結1885年4月18日

「人生100年時代」を生きるぱっとしない中年が、その日に起きた出来事と今の社会とのつながりをつらつら考えるコラムです。読んでいただけたらほくそ笑みます。

4月18日は天津条約が締結された日。と聞いて「ああ、あれ」とおっしゃる方は、よほどアジア近代史に詳しい方ではないでしょうか。はるか昔の高校時代に日本史を選択し、受験科目にもしたものの、主に勉強したのは(そして出題されたのは)縄文から江戸初期までだった私は、大人になってこの名称を聞いたとき、まったくピンときませんでした。いま思えばとんでもないことです。

幕末から維新の激動で多くの血を流しつつ生まれた明治政府が、その過程で痛感したのは欧米列強の力でした。アフリカやアジアの国々を次々と植民地にしていく貪欲パワーに飲み込まれないために考えたのは「日本が植民地を持つ側になればいい」ということ(;つД`)トホホ その手始めに標的としたのが朝鮮です。清の冊封国であった朝鮮を植民地とするからには、清と対立することは必至。また、同じアジアの同胞であり、江戸時代までは日本に外来の進んだ文化をもたす窓口の役割を担ってくれた朝鮮を植民地として支配することには、何の正当性もありません(さらに言えばそもそも植民地支配には正義がない)。それを無理やり実行したのが明治政府でした。

1880年代の朝鮮国内では、日本の幕末と同じく、今後の国の行方をめぐって様々な考え方の人々がそれぞれに行動を起こしていました。そのなかで、日本の明治維新を手本に近代化を目指す急進的な「独立党」が、清国との関係を重視する「事大党」を中心とする政府を倒そうと、、1884年12月に「甲申政変」と呼ばれるクーデターを起こしました。しかし「事大党」は清の政府と結びついていたため、清国軍の介入によって3日後に鎮圧されました。

「独立党」は日本の援助を受けていたため、政変は朝鮮と清と日本という三国の関係に緊張をもたらしました。特に、政変後も朝鮮半島に残って互いに退かない日清両軍の状況から、大至急何らかの手を打つ必要がありました。そこで、1885年3月に、中国の天津で会談が行われ、日本側は伊藤博文、清からは洋通商大臣の李鴻章が全権として派遣されました。

日本側は、政変の中で朝鮮に居留していた日本の民間人が清国軍に殺傷されたとし、清国側はクーデターを起こした独立党に日本が協力していた疑いを挙げ、会談は非難の応酬となりました。また、喫緊の課題である撤兵の必要性については合意が得られたものの、その後の緊急時への対応をめぐって意見が合わず、何度も交渉が繰り返された後の4月18日、天津条約が締結されました。

この条約の締結は、日本にとっても清にとっても後味はよくなかったようです。主な内容は「共同撤兵」で、もともと朝鮮とは宗主国という関係がある清にとっては不本意なものでした。日本は「甲申政変」の結果、支援していた「独立党」が倒れたことにより朝鮮での影響力という面ではいったん後退することになりました。この経験は、その後、政治ではなく軍事力よってアジアを支配する構想につながっていったともいわれます。近代日本の世界とのかかわり方を決める出来事だったのですね。(古川晶子

参考図書:<シリーズ 日本の近現代史③>日清・日露戦争(岩波新書) ほか