知りたい:三歩進んで二歩下がる「日本版フェミニズム」の歯がゆさ

知りたい:「日本版フェミニズム」はなぜ三歩進んで二歩さがるのか

日本社会には性別による差別がある。この春、著名な専門家のスピーチが話題となり、そこからジェンダーの問題が注目されることになるかと期待したが、専門家個人のカリスマ性やこれまでの業績がクローズアップされるにとどまった。性差別は様々な人の生きづらさを発生させ、場合によっては命の危険に直結している。なぜ、これが問題であることが社会の共通認識になりづらいのか。(古川晶子


これまでの歴史で、性差別によって抑圧されてきたのは主に女性だ。進路や生活設計、心身の健康や安全について、女性が主体的に選択し決定しようとすると、なんらかの抵抗を受けるという状況は、21世紀になっても続いている。

女性への抑圧の問題には「青鞜」の時代から様々な実力ある女性が取り組んでいる。しかし、100年たって問題が解決されているかというと、時代の変化に応じて根っこを同じくしつつ新たな問題が発生している。例えば、今や「専業主婦」は既婚女性のうち33%とされているが(平成30年度版厚生労働白書)、働く女性の中でも経営者や管理職といったポジションに就く人は少なく、また高い専門性を必要とされる仕事に就いていても大半は非正規雇用、という状況である。無報酬で家族のケアに従事する「専業主婦」が主流だった時代とは違い、「社会進出」しているようであるが、問題はそのまま持ち越されている観がある。三歩進んで二歩下がる、を繰り返しているのだ。

これはなぜか。多くのフェミニズム運動家や研究者の女性たちと交流があるジャーナリストの重川治樹さんは「自分の夫に対する目覚めがない」と喝破する。性差別について鋭い主張をし、シンポジウムなどで男性を論破する女性が、自宅に帰れば夫の顔色をうかがう生活をしている事例を多く見てきて、それは矛盾ではないか、「どこかにいる悪いやつじゃなく、自分の隣に寝ている男をまずなんとかしろ」という。

また、「女性の有権者が女性の候補者に投票していない」とも指摘する。抑圧されている女性どうしが連帯しないから、女性の政治家が増えず、数少ない女性議員がハラスメントやバッシングを受けていても抗議の声をあげることもない。それは「女性の生活感覚が変化を止めている」からだ、というのが重川さんの説だ。夫を「主人」と呼び、女は三歩下がって家事育児を担うことを是とする感覚、男児の暴力を「やんちゃ」と呼んで承認する感覚が、私たちの日常の隅々に根を張っている。意識のなかで「イエ制度」がまったく解体されていない。それが、女が主体性をもって振る舞うことや、女が権利を主張することを否定する風潮の温床ではないか、ということだ。

この状況に変化を起こす鍵は教育だ。抑圧の構造が手付かずでは、抑圧される人は助からない。既存の制度が設定する「普通」を疑い、解体する必要がある。その原動力になるのは、抑圧に対する怒りだが、私たちは怒りを言葉や形にする機会をつかみそこなっている。学校教育で、用意された正解にあわせること、点数競争に勝つことを繰り返し、目の前の物事を論理的に考える力をつけずに大人になる。これでは「普通」を疑う力が育たないのだ。

また、米国にはNOW(全米女性機構)があり、様々なムーブメントを支援している。重川さんは、日本の女性たちもそうした機構を立ち上げるべきでは、と考え、あるジェンダー問題の研究者に提案したところ、一笑に付されたという。その理由は「そんな活動をしていたら自分の研究ができない」だったそうで、使命感や危機意識よりまず自分の地位なのか、とため息が出たそうだ。

重川さん自身はシングルファーザーとして、勤務・家事・育児を長くワンオペで担った経験がある。そのかたわら、日本社会の根深い性差別の問題に、自分自身が「どうしようもない男の一員であることを認め、その事に葛藤しながら」かかわってきた。どんなに問題を理解しようとも、当事者である女性になることはできない。そんな自分にできることはなにかを自問自答し、たどり着いたのはパフォーマンス的な「女性の味方」ではなく、日常的な言動によって「男のなかで男を裏切る」存在でありつづけるという道。そこからの「日本版フェミニズム」の評価は、限りなく辛口である。

その辛口は当たっていると思う。近頃は男性から女性への抑圧に加え、男性の間での格差や、多様な性を生きる人への差別が顕在化している。私たちは日常でそんな場面に出会ったときに、ことを荒立てずにスルーしようとしていないだろうか。それは、誰に忖度しての行動なのか。その行動で抑圧を肯定しているのではないか。自分自身の「普通」を疑うこと、そのための学び直しをすることが、「人生100年時代」を生き抜く力につながるのではないだろうか。