知りたい:演劇で社会を変える「フォーラム・シアター」(下)

知りたい:演劇で社会を変える「フォーラム・シアター」(下)

役者ではなく当事者が問題を演じることで、社会を変えるという「フォーラム・シアター」。そこにはどんな可能性があるのだろうか。社会学者の熱田敬子さんに聞いた。(古川晶子

知りたい:演劇で社会を変える「フォーラム・シアター」(上)


―中国の女性たちによる『ヴァギナ・モノローグス』上演運動について、もう少しお聞かせください。

自分の体の一部なのに、語ることをタブーにされ、汚れた言葉のように扱われ、自分でもよく知ることのない女性器のありよう――日本でも、一番多く使われている女性器の名称は女性を性的に辱めることに使われ、女性自身が自ら呼ぼうとしてもわいせつだと言って伏字にさせられます。自分の身体の一部を自分で呼ぶことが、わいせつで恥じなければならないことだとされることはなぜでしょうか。「ヴァギナ・モノローグス」の運動は、汚され、隠されてきた自分の身体を、大声で語り、取り戻していく運動でした。
DV、虐待、望まない妊娠や中絶、痴漢被害など、自分の尊厳を傷つける出来事に出会ったとき、女性が大声で「NO」が言えないのは、その人のせいではなく、社会が女性をそうさせているから。WEB上では制限がかかるかもしれないので「○○○」※と表記できないそうですが(笑)、それはなぜなのか、女性に自分の性を語らせない社会というのは何なのかを考える必要があります。
※女性の性器を表す言葉
これまでかき消されてきた「○○○」を声に出すことで、これまで押し付けられていた意味を壊し、自分の身体を取り戻すことが始まります。
「○○○」が嫌なら、自分で名づけたっていいんです。以前のフォーラム・シアターの参加された方に大事なところだから「だいじ」と呼ぶと子どもに教えたという人がいらっしゃいました。素晴らしいと思います。「アソコ」なんて、隠さなければならない、悪い場所のように言うよりずっといいですね。

―演じることからそこまで広がる・・・!

そして、もう一つ可能性があります。自分と他者の経験をつなぐ可能性です。

―たしかに、役者さんと同じ空間にいると、文字や映像で受け取るよりも、もっとたくさんの感情や情報が伝わってきますね。圧倒的な説得力というか。

「ララミー・プロジェクト」という取り組みがあります。実際に起きたヘイトクライムの事件をきっかけとして、俳優が実際の事件を取材し、調べて、そのリサーチを元に、演出家とお芝居にしていくというドキュメンタリー演劇です。日本でも、翻訳を燐光群という劇団が上演したことがあります。
中国の中山大学でも、脚本をつくるために学生は普段自分が出会わないような人たちの経験を調べ、インタビューを行いました。リサーチの過程で、俳優たちは自分の偏見や思い込みに気づき、差別を生む社会構造を知ります。また、自分たちは調べて詳しくなり、社会の偏見や差別意識に気づいたとしても、観る人たちは偏見をそのまま持っています。どうやって伝えるのか、演技を通して対話をしなければなりません。

―ドキュメンタリー演劇というものがあるのですか。

プレイバック・シアターとか、ドラマ・エデュケーションなどという手法もあります。ただ、どんな方法を使うかよりも、やってみることじゃないかなと思います。踊る阿呆に見る阿呆、といいますが、演劇は自分がやらないと面白くありません。
そして、ジェンダーと社会学を専門にしてきた私自身は、やはり差別と抑圧が体に刻み込まれ、気づきにくく、抜け出しにくくなっている人が多いジェンダーという領域に、演劇の手法を通じて切り込みたいと思っています。中山大学の柯さんにも色々教えていただきましたが、演劇発の手法だけではその場合不十分で、ジェンダー、そして社会に関する知を十分に生かしていかなければなりません。

―問題を演じるには、学びも必要なのですね。

さいたま市の連続講座「女性カレッジ2019」では、この「フォーラム・シアター」の手法を取り入れています。毎年、参加者の方の身体に刻まれた経験が、お芝居を通じて語りだすという感動的な経験をしています。例えば、介護なんかやっていて、夫の無責任さにいらいらするかもしれない。それを友達に話したら、愚痴になってしまって言いたくないかもしれない。でも、お芝居にしたら、みんなが笑って拍手して、共感してくれたりする。しかも、その話は自分の話だとかいう必要もない、お芝居は虚構ですから。人から聞いた話とか、テレビで見た話かもしれない。でも、演じているときは、確実にその人の経験になります。

―他人事を自分事に変えられる、ということでしょうか。

それから、演じてみて他者のわからなさに気づくこともあります。「女性カレッジ」は、地域の女性たちのための場所ですが、例えばそういうところではセクシュアル・マイノリティの経験する差別は、なかなか自分事のテーマにされにくかったりします。でも、知ってるつもりでも、例えば自分の子どもがセクシュアリティについて伝えてくる、というような場面を演じてみると、なんと言っていいかわからなかったりします。そうすると、どう言おう、大事な自分のこの子に、何といおうと考えるんです。同時に、家庭の中で「母親」が子育てを一身に背負い、子どもの成長は母親の責任だと考えられていることが、「母親」にプレッシャーを与えていることも浮き彫りになったりします。自分と他者の問題がつながってくるのです。

そういったところで、共感して終わり、とか、日常の不満のガス抜き、社会と切り離された個人的な話にしないためには、ジェンダー分析が不可欠です。差別も抑圧も、社会の制度に組み込まれていますから、個人の良心だけではなくなりません。なぜその問題が起きているのかということ、どうしたら私たちは自分の人生と社会を変えられるのかということを、演じる人と一緒に考えたいと思っています。


経験から出てくる表現には、とてつもない説得力と思いがけないユーモアがある。知らないこと、わからないことが原因で、相手を傷つけてしまうこと、たとえば世代間の断絶にも、この手法は効くのではないか。就職氷河期世代にも、団塊世代、バブル入社組、ゆとり世代にも、それぞれのつまずきや苦しみがある。お互いにその背景や求めるもの、望むあり方などの違いを理解しあう手がかりになったら・・・教えていただきながら、そんなことを考えていた。

女性カレッジ2019
女性が日常的に感じる、もやもや、悩みをテーマにしたフォーラム・シアター体験のプログラムがある。